私の愛するロシア
私の愛するロシア
著者/エレーナ・コスチュチェンコ
訳者/高柳聡子
出版社/エトセトラブックス
サイズ/496ページ 19*13cm
発行(年月)/2025年11月
外の世界のことをここでは<自由>と呼んでいる
沈黙を拒むジャーナリズム、私たちが本当に知るべきロシアの姿。
プーチン政権批判の最先鋒「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙に17年間つとめたジャーナリストによる、渾身のルポルタージュ。戦争にひた走るロシアにおいて、モスクワから遠く離れた地方の自動車道で〈身を売る〉女性たち、廃墟で暮らす未成年の子どもたち、国営の障害者施設、忘れられた公害、隠蔽された学校占拠事件、迫害される少数民族、性的少数者……政権下において周縁に追われ隠されてきた人びとの声を伝える記事と、真実を語る記者としてそしてLGBT活動家として戦ってきた自らの半生を交互に綴る。2024年プーシキンハウス図書賞受賞。
「私は、自分の母国への愛についての本を書いた。常に良い方向に、というわけではないにしても──この国が、その生においてどう変わっていくのか、この国が私たちをどう変えるのかを。ファシズムは何から生じるのか、どんなふうに育ち、開花するのか。本書に頻繁に登場する私の母もまた、私の母国だ。そして私自身も本書に登場する。私はもう、自分のルポルタージュの主人公たちの陰に隠れたりはしない」(本文より)
<訳者あとがき より>
本書は、ジャーナリストとしてコスチュチェンコがこれまでに取材した中から選んだ代表的なルポルタージュと、彼女自身の子ども時代の回想やこれまでの経験を綴ったテクストから構成されている。コスチュチェンコは海外の取材も多く手掛けてきたが、本書には基本的にロシア国内のルポが選ばれている(戦禍のウクライナが例外としてある)。
広大なロシアの各地に足を運び、ベスランの学校占拠事件のような世界中に報道されたテロ事件から、地方都市の公害、さらには、廃病院で暮らす未成年の子どもたちや自動車道で身を売る女性たちのことなど、ともすれば忘れられがちな地方や大都市の周縁、消えつつある少数民族、クィアな人たち、障害をもつ人たちなど、終始ロシアに目を向けているはずの私たちも想像したことさえなかった一隅が可視化され、その現実を突きつけてくる。ルポルタージュというジャンルの威力を目の当たりにする思いがした。
さらに、政治の不手際が、中央からは死角となっている市井の人びとの生活の細部に綻びをもたらすこと、数年後に戦争を始める国で起きていたことが垣間見える気もする。大きな政治や大きな経済や軍の話をせずとも、私たちの生活がそれまでのように立ち行かなくなるとき、必要なものが手に入らなくなるとき、人間が粗野に扱われるようになるとき、私たちはその原因の責任の所在を明確にすべきなのだとあらためて教えられた思いだ。これは、今の日本に生きる私たちにとってもまったく他人事ではない。
(…中略)このように、ジャーナリストとしてのコスチュチェンコの仕事と彼女自身の人生は、おそらく、切り離すことのできないものとしてある。ジャーナリストになることは、彼女にとって生き方の選択でもあったのだと思う。そして、現在のプーチン政権下のロシアが、同性愛者としてもジャーナリストとしてもコスチュチェンコを排除しようとしたことを考えれば、法の外に置かれた人びと、法がすくいあげようとしない人びとの声を、時には命がけで拾い集めに向かう彼女の姿勢を少しは理解できるかもしれない。
本書を読めばわかるように、コスチュチェンコは、記事にするために、ただ誰かに話してもらいに行くのではない。記事を書くことが目的で取材に行くのではない(と私には思える)。その人が存在していること、その人には声があること、他の誰のものでもないその人自身の声があることを伝えるために会いに行く。第12章に登場する脳性麻痺のスヴェータ・スカズネワという女性が、全身を震わせながら携帯電話に打ち込む文字で会話するときのように、カルテには決して書かれない患者の言葉と出会うために取材に行く。47歳で寝たきりのスヴェータは、娘をもちたいという夢も語ってくれた。この言葉を引き出せるのがコスチュチェンコの力ではないかと思う。この章を訳しているあいだずっと、日本で2016年に起きたやまゆり園の殺傷事件の被害者の方たちのこと、旧優生保護法下で不妊手術を強いられた方たちのことを考えていた。
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